多忙

 リアルに仕事が忙しくって家に帰れない(現在実家で作業中)ので、もちろん音源だって全然出来ていません。僕を逆さにしても何も出てきません。現在はデザイン以外のお仕事をもらっている状態なのですが、いかんせん家から出ないため気分が落ち込んでしまいます。なのでここ最近、気を紛らわすために動画サイトで海外ニュースを聴き流しながらお仕事している状態です。

 

 どうやら今日はコロンビアのニュースを報じるとのことで、僕も仕事の資料に目を透しながら耳を傾けます。どうやら現在コロンビアのランパズという場所ではコカインをペースト状にしたものをお金の代わりに支払い、それで売春婦を呼んだり日用品を買うのが問題になっているとのことなんです(間違って聞き取った可能性もあります)。

 ランパズはどうやら一番技術が発達していないエリアらしく、電気が通ってないどころか警察も医療機関も無いのだそうです。どうやら現金を見たことがない子供すらいる実情のようで、日本人である僕にとってはその凄まじい状態に言葉を失ってしまいましたよ。

 そのエリアはコカの葉の栽培だけで生計を立てている状態だとニュースキャスターが報じたとき僕は資料から目を離して画面を見つめました。いや、コーンぐらいは作れるだろコロンビアの環境だったらと思ったのです。その疑問に答えるようにニュースキャスターはこう続けました。

 

 「地元政府はコカ以外の農作物を栽培するよう助成金を渡していますが、それを拒む地元住民と度々トラブルが発生してしまい遅々として問題が解決していない状態です」

 

 あぁなるほど。シンプルにコーンを作るよりコカを栽培したほうが儲かるからでしょうね。地元で浸透した文化を現代の流れに巻き込むのは難しいことなのだなと僕が資料に再び視線を落とした瞬間、

 

 「今年の夏にも警察と農民との衝突が起き、激しい攻防が繰り広げられましたが……」

 

 これで農民が拘束されたりしたら家族が可愛そうだなぁ。

 

 「警察官1人が3日間拘束されました」

 

 なんで警察官負けてんだよ。

固定概念とサングラス

 「固定概念をなくそう委員会」を作りたい。というのも僕が高校時代からあるひとつの夢が理由です。その夢とはサングラスをカッコよく装着できる男になりたい。世間一般におけるサングラスに対する固定概念が2017年時点で完全に凝り固まっており、ほぐれない状況にございます。

 一部例外の方もいらっしゃるかと存じますが、サングラスに対するイメージといえば「ヤンキー」「視力や眼球に何らかの理由がある人」「タモリ」の三択の方がほとんどかと思われます。違います。もともとサングラスとはファッションアイテム、つまりは自らのアイデンティティーをアピールするためのものなのです。

 ふと気になってサングラスのルーツを辿ってみようとWikipediaを開いてみたらもう一気に心が重くなりましたよ。開いて最初に読んだ一行に何と書いてあったと思いますか。「日差しや強い照明から眼を守るために着用する保護眼鏡のこと」ですって。保護眼鏡ですって。ホゴメガネ。こんな堅苦しい言い回しをしたらかけられるサングラスもかけられないというものです。失礼ですがこの文章を書かれた方は眼球に角膜とか虹彩が無い方で常に黒目が広がっているのでしょうか? それだったら前述のイメージにおける「視力や眼球に何らかの理由がある人」に該当します。日光のせいにしてはいけません。人間は本来光を調節して角膜の奥で像を結ぶ眼球の作りをしていることは義務教育中に習ったはずなのです。ではなぜサングラスが存在するのか。そう、ファッションだからです。皆様もそろそろ目が覚めてきた頃なのではないでしょうか。

 

 しかしながら僕とて弱い人間です。電車の女子高生の笑い声が聞こえたら身だしなみを確認してしまうほどの弱い心を持ち合わせた人間ですのでそんな洗脳と言う名の固定概念にまみれた世界でサングラスを威風堂々と装着できる勇気など持ち合わせておりません。僕がサングラスを装着し犬の散歩でもしようものなら点字ブロックの上を歩かないと声をかけられそうなほどに僕はサングラスが似合いません。ここまでお読みになられた方は薄々感づいていらっしゃるかもしれませんが、もうこれは固定概念とか関係なく僕の顔がサングラスに似合っていないから買いたいけど買えないだけなのです。だけどそれだけのことをブログにただ書くのも味気がないので無理やりに内容を引き伸ばしました。いかがでしたか。明日もまた読んでくれるかな(いいとも)。

原点回帰

 Twitterのアカウントを消したことにあたり、様々な方々が理由を聞かれてそのたびに「人間トラブル」とか「勝手に消えた」とか嘘をつくのも疲れたのでこの際この場を借りて明言させていただきますが単純に「要らねぇ」って思ったんです。朝起きて逐一「おはようございます」と書き込んだり、ふと夜になって「あ、今日なにもツイートしてないや。なんかツイートしないと」と追われるような気持ちになるのがバカバカしくなってしまったのです。その思いはかれこれ2年ぐらいはズルズルと引きずっていたのですが思い切った挙に出る決意が固まりました。ツイートしている時間すっごい無駄。っていうか冷静に考えたらTwitterって書くことあまり無いじゃないですか。思ってることをそのまま垂れ流すだけだったら自白剤をギュンギュンに打ち込まれた捕虜と変わんないですよ。だったらちゃんとした文章の形でまとめられるブログのほうがいいやと思い、ブログ再開です。今までも幾度となくブログを再開しては「これTwitterでいいことばっかりだ」と1週間足らずでブログを消してまいりましたが、逆でした。機能性や自由度を考えたらブログの方がいい。なのでTwitterのほうを消した運びとなりました。

 

 しかしながらTwitterが無いといくつも不便なことが出てきたことも事実です。まずサイト登録。今日び何かのサイトに登録するためにはメールアドレスを入力してパスワードを設定して等と面倒な事をする必要がないのです。Twitterアカウント。これ一つでだいたいのサイトは登録できるようになりました。なので今の僕は馬鹿真面目にメールアドレスを入力してはパスワードを設定し、そのパスワードを忘れないように記録するという手順が不可欠になっております。久々の感覚ですが、面倒です。こんな面倒なことを僕達はwindowsが家庭に普及して2000年代前半まで行っていたのです。否、今が便利すぎるのでしょう。僕も現代社会の利便性に依存した堕落豚に成り下がってしまったのです。死にたい。

 

 実際にはメリットもあります。何よりもTwitterをやっていたとき無意識に感じていた「監視されているような感覚」がなくなったため、幾分か心が自由になりました。好きなタイミングで好きな考え方をしていいし、ブログでどんな表現もしていいのかと考えると開放感があります。あとは見たくもないものや知りたくないものを知る必要がなくなりました。これはかなり大きいです。ここ数年の情報技術の発達たるや韋駄天と呼ぶべきか記録と記憶が追いつかないほどにドッグイヤーSNSで手軽に情報を得ることができるようになったぶん、逆に多くの情報を手軽に発信できるようにもなったため心無い言葉や非人道的なものすらも肯定の声が上がるような時代になってしまいました。もちろん取捨選択をすればいい話ではあるのですが、それが五感のどれかに感じ取った瞬間の不快の須臾は偽れません。それがほぼゼロになるということは素晴らしいことです。ただでさえ外歩くだけでも排気ガスを吸ってるのにインターネットの世界でまで心を汚したくありません。これはブログなどではあまり無いことですので、嬉しく思っています。これからもなるべくおだやかに生きたいものです。